まえたなのblog

主に観光関連,好きな本、自分の考えなどについて書きます

伏見日本酒18種飲み比べ 伏見酒蔵小路

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 京阪中書島駅から徒歩9分程で行くことの出来る伏見酒蔵小路。下の写真が入口。

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  伏見と行ったらお酒の街。今年20歳になったので今まで飲めなかった日本酒を飲みに行くことに。中書島駅から龍馬通りを抜け歩くこと約10分。最伏見酒蔵小路というひとつのお店かと思ってたら中は複数のお店の集合してる場所だった。鉄板焼きにラーメンに焼き鳥。お酒と相性の良いものばかり。目的は日本酒飲み比べだったのでご飯は食べずにそのお店へ。そしたらとても人気なためか1時間半待ちらしく予約することに。まだ伏見月桂冠大倉記念館に行っていないので待ち時間の間に行くことに。そんな感じで時間を費やすこと約1時間。少し早めに席が空いたとの連絡がありようやく待ちに待った日本酒飲み比べ!

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  日本酒はこんな感じ!なんと18種類もの飲み比べができる。値段は2200円。お酒が強いわけではないので2人で18種類を分けて飲むことに。アルコールの度数は15度や16度のものなどなかなか強い。日本酒はそれぞれ特徴が違って確かに違いがあるなーって感じ。個人的には玉乃光酒造 玉乃光備前雄町純米大吟醸がお気に入り!

 1時間くらいゆっくり飲んでお店を後に。ずっと飲んでみたかった伏見のお酒を飲むことができ大満足!!どれもほんとに美味しかった。伏見の街の雰囲気も好きだしほんとにお気に入りの場所。また来たい。

 

 

 

この秋オススメ!京都洛北3選

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 京都の洛北。出町柳駅から叡山電車に乗り、めぐることのできる数多くの観光地。そんな中からいくつかお勧めの観光地を紹介していたい。

1瑠璃光院 

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1つ目は瑠璃光院。

アクセス 

出町柳駅→八瀬比叡口→徒歩。

 何と言っても紅葉の時期の特別拝観の時に訪れるのがオススメ。とても多くの観光客がいて拝観するにはまず整理券を受け取る。それに書いてある時間になったら指定の場所に行き全員で歩いていく。待ち時間は2時間や3時間になることも。そして拝観料2000円となかなかの金額。しかし一度は絶対に行くべき。また冬の雪景色や夏の新緑など春夏秋冬姿が変わり見所が満載。毎シーズン行くのもいいだろう。

2 大原三千院

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2つ目は大原三千院

アクセス

京都駅からバス大原行き→大原三千院

瑠璃光院からの場合

八瀬駅前バス停→大原

 瑠璃光院拝観後にバスで行くことができるため行くなら両方行くのがおすすめ!三千院も秋の紅葉の季節はとても美しい。それに加え国宝の阿弥陀三尊坐像は仏像好きにはほんとにたまらない!仏像以外の見所はなんといっても庭園。池泉回遊式庭園の有清園と客殿の池泉観賞式庭園の聚碧園の2つの庭園がある。

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行くところ行くところついカメラを構えたくなる場所ばかり。滞在しようと思えばいくらでも滞在できそうな場所。庭園といっしょに境内のお堂巡りも。

 また大原は野菜の産地であり、赤シソで野菜を漬け込むしば漬けのふるさと。お土産や食事の際には是非!

 全部見て回ると1時間以上かかるので時間にゆとりを持たせて行くのがおすすめ。 

3貴船神社

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3つ目は貴船神社

アクセス

 出町柳駅から叡山電車貴船口にて下車。貴船口駅のバス停からバスで貴船へ。そこからは徒歩。貴船口からは徒歩でも行ける。また鞍馬からの山越えでも行けるので時間がある方はこれもおすすめ!

 貴船神社は春夏秋冬いつ訪れてもその季節の魅力を堪能できる場所。夏の新緑のライトアップ、紅葉のライトアップ、雪の降る日のライトアップどれも幻想的でとても美しい。

 また川床料理は季節によって変化がある。夏の名物は流しそうめん。冬は牡丹鍋。毎シーズン訪れたくなる魅力がたくさん。

 貴船神社は鴨川の水源に位置し高龗神(たかおかみのかみ)と暗龗神(くらおかみのかみ)が祀られている。平安時代の頃より雨乞いや雨止の祈りが行われてきた。

 また中宮には縁結びの神である磐長姫命を祀られていて結社と呼ばれている。そのため恋愛成就を願う人々も訪れている。平安時代には和泉式部が復縁を祈りにきたともいわれている。

 本宮には水占みくじやお守りや御朱印などがあるので忘れずにチェック!

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 また中宮からさらに奥にある奥宮はとても神秘的な場所であるので忘れずに。

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 また貴船神社は藁人形の恐ろしい話も存在する。今ではすると犯罪になるためやってはいけないが、昔は丑の刻参りが行われ藁人形を打ち付けていたとか。

 以上の3つが洛北にある私のおすすめスポット3選である。この3つは1日で全て行くことも可能である。是非訪れてほしい!

 

 

 

 

 

徒歩だけで巡る京都の街

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 京都駅を出ると多くの人がバス停から各々が目的の場所へ向かっていく。京都旅行においてバスはとても便利であり必須と思っている人もいる。バスに乗らない人は京都駅から東福寺へ行き京阪電車に乗り換える人や宇治方面へ向かう。このようにほとんどの人が公共交通機関を利用し旅を始める。

 今回私が紹介したいのは公共交通機関を使わない京都旅行だ。そのため宇治や貴船、嵐山、金閣へはさすがに行くことはできない。

私がオススメするルート

京都駅→京都国立博物館三十三間堂清水寺→将軍塚

 京都駅より七條駅を目指して歩いていき京都国立博物館へ。徒歩で約20分。三十三間堂は博物館のすぐ近くなのでこの二つは合わせて観光したい。今している皇室の名宝展は今しか見れないのでとてもオススメである。私も即予約した。三十三間堂は千体の仏像があり自分に似ているものがあるらしい。今まで2回ほど行ったがまだ見つけられていないが。京都国立博物館三十三間堂を見終わったらちょうどお昼の時間だろう。清水寺へ向かう道中には飲食店がたくさんあるのでどこでも気になったところへ。

 1時間くらい歩くが京都の街の雰囲気を楽しめるので楽しいはず。これも徒歩の魅力の1つ。昼食後のおやつには清水寺へ行く間に八つ橋やみたらし団子がとても良い。

 清水寺を見終わった後は将軍塚へ。ここまでまた歩いて1時間。なかなか遠い。だいぶ厳しい道のりだが頑張って歩こう。やっとの思いでたどり着いた将軍塚からの眺めは絶景だ。京都市内を眺めることができる。道中に気になるカフェやお店によって夜景を眺めるのもとてもオススメ。

 帰りは徒歩だと1時間。徒歩での旅を貫くのなら来る時とはちがう夜の京都を満喫しながら歩いて帰ろう。疲れきっていて歩きたくないのならタクシーに乗り15分で帰ることができる。3人くらいでの旅でなら良いかも。

 以上が徒歩で巡る京都のオススメルートである。最後に時間があれば京都タワーもあり。

 最後までお読み下さりありがとうございます。

 

 

東北で暮らしたい

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 東北へとても行きたい。中国地方に住んでいる私からすると東北はとても遠く、行ったとしても年に1回程度。去年の夏に青森に行ったのを最後に行けいない。今回企画して来年の2月3月に1か月以上かけて行う旅では、山形、秋田、宮城、岩手、青森に新潟、富山、福井,の北陸も行く予定だ。予算は上限50万円。おそらく大学生活でもっとも壮大な旅になることだろう。

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 これが今考えている旅のルートだ。東北での出発の場所は新白河駅。そこからバスで白河の関へと向かう。古代より白河の関が東北の地への入り口であった。松尾芭蕉もこの地を訪れている。そのため東北旅行の出発地点に最もふさわしい場所だ。また今回のルートは松尾芭蕉の東北紀行を参考に行きは太平洋側を北上し帰りは日本海側を行き北陸から滋賀へと向かう。その道中には奥州平泉や山寺など芭蕉が訪れた場所をいくつか行く予定だ。

 そして今回の旅のテーマは「東北で暮らす」だ。観光地をいくのも勿論目的の一つだ。しかしそれ以上に東北というほとんど訪れておらず気候や文化、生活が違うであろう場所で暮らしてみたいという思いがある。ただ観光地を巡るのではなく、ここいいなと気に入った場所には連泊して街の雰囲気を存分に堪能したい。また移動もなるべく新幹線を使わない。銀河鉄道青い森鉄道なまはげ鉄道に乗るのが楽しみ。

 もうひとつのテーマは「奥州藤原氏ゆかりの地を行く」だ。平泉、金鶏山、毛通寺。そしてずっと行きたいと思っていた十三湊へ行く。十三湊は奥州藤原氏と関係のあった港であり大きな役割を果たしたのでないかということを本で読んでからずっと行きたい場所だ。今回ようやく訪れることができる。

 だいたいの行きたい場所は考えているがその日その日の気分で柔軟に計画を変更し最高の東北旅行にしたい。そして東北の美しい雪景色を存分に自分の目におさめたい。

 

エコツーリズムとは

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エコツーリズムの概要と課題

エコツーリズムとは
 観光旅行者が、自然観光資源について知識を有する者から案内または助言を受け、当該自然観光資源の保護に配慮しつつ当該自然観光資源と触れ合い、これに関する知識および
理解を深める活動のこと。環境問題への関心の高まりや観光による自然への悪影響などの問題から自然に配慮した観光を行うために推進された。
基本理念
エコツーリズムには下記の4つの基本理念が存在する。
・自然環境への配慮・観光振興への寄与・域振興への寄与・環境教育への活用
地域の取り組み状況とその地域

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環境省のサイト参照
活動例
秋田県藤里町白神山地において岳岱自然観察教育林や田苗代湿原,太良峡コースなどでおこなわれているガイドツアー
静岡県富士郡芝川町の富士山麓地域では、遊牧民キャンプ、富士山冒険学校、火山洞窟講座、熱気球教室、週末自然体験広場などの活動が行われている。
・鹿児島県熊毛郡上屋久町の屋久島地域では、森歩き、登山、沢登り、リバー・シーカヤック、ダイビングガイドなどの活動が行われている。
これらの活動により新たな観光客を呼びこむことに成功している。また就学旅行の際にも利用され教育活動にも貢献している。
課題
エコツーリズムには主に、認識に関する課題とエコツアー参加者の増加に向けた課題とエコツーリズムに取り組む地域や事業者の増加に向けた課題の3つがある。
認識に関する課題
ツアーの参加者が自然の中での体験をする点においては同じであってもその背景となる考え方が異なっていることが多い。またエコツーリズムに関する用語を旅行者だけでなく、場を提供する地域や観光業の人も十分に理解できていないことがある。これらを改善するためにも資源の状況やマーケット性などのモデルを示し認知を拡大させる必要がある。
エコツアーの参加者増加に向けた課題
それぞれの地域がエコツーリズムに積極的に取り込んで受け入れの準備を整えてもその状況をうまくマーケットに伝えることができていないことがある。また関連の事業者は、環境に配慮した高質なサービス内容を揃えたとしてもそのことをアピールする客観的な基準がないため、地域や観光業者などのエコツーリズムへの取り組みや販売を滞らされている。そのためエコツーリズムへの取り組みを表す基準を作り公開する必要性がある。またエコツーリズムに親しみやすいいイメージをつくり参加のしやすい環境づくりをしていく必要性がある。
エコツーリズムに取り組む地域や事業者の増加に向けた課題
豊かな自然があり、自然保護と活動に関する情報が集まりやすく観光客を増やしているところも多い。しかし反対に里地などでは身近に自然があるにもかかわらず、ノウハウ不足が原因により取り組みを行うことのできないところも多く存在している。そのため地域の状況に合わせたノウハウをまとめ公開し共有していくことが必要とされている。
以上がエコツーリズムの概要と抱える主な課題である。
参考文献
(1) 観光学キーワード 山下晋司 有輩閣双書 2011
(2) http://www.env.go.jp/nature/ecotourism/try-ecotourism/area/index.html

今様の歴史

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  今様の歴史
今様
平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて今様が流行した。しかし歴史の書物の中に初めて登場するのは一条天皇の時代である。もとは農民のなかで広まっていたが雅人親王、後の後白河院がこれに熱中し梁塵秘抄にまとめた。一説によると今様を歌いすぎて何度も喉をつぶしたとか。また農民以外の今様の主な担い手は、遊女や傀儡、白拍子であった。農民から貴族、天皇まで誰でも親しみ、歌うことのできるものだったが遊女や傀儡、白拍子等は今様に舞をつけ歌う今でいうプロのような存在であった。また今様は庶民からも人気があったためその内容からその当時の人々の生活や思いなどを垣間見ることができる。例えば、「鵜飼はいとほしや 万劫年経る亀殺し なた鵜の首を結ひ現世はかくてもありぬべし 後生わが身をいかにせん」という歌では、自らの生活のため亀などいきものを殺さなければならないことに対する罪の思いが込められている。現代の音楽とは形は違うが感情を歌にしている点においては現代のポプュラー音楽の歌詞と似ているてんでもある。
歴史的観点から見る今様
今様が歴史に与えた影響の一つとして後白河院の誕生がある。もともと皇位継承するとは思われておらず後白河天皇即位は皆を驚かせる出来事だった。雅人親王(後の後白河天皇)は非常に今様に興味を持ち、歌のうまい人がいるという話を聞くと身分を問わず屋敷に招き教えてもらっていた。そんなことから政治に興味がなく野心のない人だと思われていた。そんなこともあり近衛天皇崩御したのち鳥羽上皇は、雅人親王天皇にすれば操りやすく自分が実権を握れると考え即位させたと言われている。後白河天皇の誕生が朝廷内での争いの原因の一つとなり後の保元の乱へと続く。これらは後白河天皇が今様にあまりにも熱中しすぎた延長線上の結果ともいえることから意図せず「今様」は歴史に大きな影響を及ぼしたポプュラー音楽のひとつといえる。  
平安中期にみられる今様
 今様が最も流行したのは平安末期であるが平安時代中期に書かれた『紫式部日記』にも登場している。『紫式部日記』には次のように書かれている。「琴・笛・の音などにはたどたどしき若人たちの、読経あらそひ、今様歌どもも、所につけてはをかしかりけり」。この記述から平安中期にはすでに歌われ貴族階級の人たちにも認知されていたことが分かる。またこれより前の寛弘5年の5月22日の土御門殿での法華三十講結願の記事にも法要がおわった後、今様が歌われたとある。またこの時期から約2、30年後の後朱雀天皇の時代にも今様が歌われていた。『吉野吉水院楽書』という鎌倉時代の楽書には、「今様の殊にはやることは後朱雀天皇の御時より也」と書かれている。以上のことから今様が梁塵秘抄のまとめられる前から平安の世では流行していたことが分かる。
その後の今様 
 平安時代に流行した今様だが鎌倉時代には衰退の道をたどった。中には宮廷行事の一部として残ったが江戸時代の頃にはほとんど歌われなくなった。また兼好法師の書いた「徒然草」の中に梁塵秘抄についての記述が残されている。そこには、「歌の言葉にはしみじみと感動させられることが多い」と書かれている。しかし今様に関する記述はこれだけでありその後書かれることはなかった。このことから分かるように平安のポプュラー音楽として流行した今様は鎌倉以降には完全にブームがおわっていたことが分かる。
 その後数百年が過ぎ明治末から大正初めにかけて再び注目された。その原因は、歌詞集巻一断簡と巻二、口伝集巻一断簡が発見されたことであった。これは研究対象以外にも詩人や歌人にも大きな影響を与えた。また2007年に刊行された伊藤比呂美の長篇詩『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』にも影響がみられるなど様々なところに影響を及ぼしている。また大河ドラマ清盛でも取り上げられたことで再び注目された。今後もまた注目を集める可能性がある。
参考文献
(1) 梁塵秘抄 後白河院 植木朝子
(2) 平清盛をめぐる101の謎 川口素生 2011

 

東と西の語る日本史

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東と西の語る日本の歴史」という本について
この本は
一はじめに くらしのなかの東と西
二「ことば」と民俗―東と西の社会の相違―
三考古学からみた東と西
四古代の東国と西国
五「しゅう馬の党」と「海賊」
六東の将門、西の純友
七源氏と平氏―東北・東国戦争と西海の制覇― 
八東国国家と西国国家
九荘園・公領の東と西 
十イエ的社会とムラ的社会
十一系図にみる東西
十二東は東、西は西 
十三東と西を結ぶもの 
十四東国と九州、西国と東北 
十五東の文化と西の文化
におおまかに分けて書かれている。
 一「はじめに」では、はじめに私たちの暮らしの中での東と西の違いについて述べている。そして日本人は同じ言語、同じ人種からなる単一の民族であるという通念、にあまりにも親しみすぎているのではないかという疑問のもと論を進め土地によっては言葉はまるで違うことを例に挙げ東と西の違いについて述べている。
 二「「ことば」と民俗」では、「ことば」主に方言に注目して書かれている。他には東と西での嫁と夫の関係の違いについても書かれている。
 三「古学からみた東と西」では、戦後の考古学の発達により次々と発見され報告されたことから分かる東と西との違いについて書かれている。この章で筆者は、芹沢長介氏の、石器作製における東と西との違いの見解を紹介している。加えて、安田喜憲氏の、東の細石刃文化(荒屋型彫刻刀をセットする)には北方の亜寒帯的要素が、西の細石刃文化(半円推型石核を特色とする)には南方の落葉広葉樹林(コナラ・イヌブナ・アカシデなど)の温帯的要素が、それぞれ強く結びついているという指摘を紹介し、東と西との文化の違いは二万年前に根を持っていたと述べられている。また縄文時代における東と西との遺跡や文化の違いや弥生文化の広がり、古墳の拡大などについても書かれている。
 四「古代の東国と西国」では、石井良助しの毛野氏に対する、大和朝廷に対する独立国
家たるの地位を有し、さらに狗奴国こそその前身であるという考えを紹介している。それに対する井上光貞氏の東国を大和の王権による新たな征服地とみる、東国の大和勢力に対する隷属性を強調するという石井氏の対極の意見も紹介している。また西と東との違いにおいては、西は主に船で戦う水軍としての軍事力であり東は騎馬としての軍事力とされていたことに触れて述べられている。それとは別に東国には東北の蝦夷に対する軍事力としての役割があったと述べ締めくくっている。
 五「「しゅう馬の党」と「海賊」」では、九世紀半ば以降、しばらく平穏であった社会が西と東で動き出はじめ、十世紀初頭の延喜の改革をへて、承平・天慶の乱に至る過程が書かれている。この章で述べられている東と西の違いは、西では海賊による反乱が多く、そこでは四章で述べられていた通り船による活動が活発であったと書かれている。それに対し東では、「弓型騎兵武者」だけでなく東国の特徴として東国独自の製鉄技術の発展があったのではないかという研究があることを紹介し西との違いを述べている。
 六「東の将門、西の純友」では、この章の名前にある通り将門と純友の反乱について書きそこから分かる東と西の違いについて述べている。この章で筆者は、将門には全国を支配する意志は毛頭なかったが、東国を支配し独自の国家機構を樹立しようとし、短期間でもそれは実現したという持論を述べている。そしてそれは最初の東国「民族」史における最初の国家の成立としている。また純友の反乱に対しては、船による迅速な機動性をもち、集中的な破壊力をもつとはいえ、すでに陸地に強固な基礎をもつ「本天皇」の国家―王朝国家に対して、水軍による海賊が組織的な国家―海上国家―を作り上げることは、所詮、不可能であり、純友軍の動き自体にも、それをうかがうことはできないと述べている。そして東西の反乱が鎮圧されたのち、水軍としての実力を蓄えた海賊たちが伊勢平氏の武力的な基盤ちなり、東国の騎馬武者を従えた源氏と戦うこととなっていくとして締めくくっている。
 七「源氏と平氏―東北・東国戦争と西海の覇者―」では、はじめの承平・天慶の乱のその後の西国と東国について書かれている。また東北の国家についても触れている。そして安部氏、清原氏藤原氏を例として挙げ東北には東国と結んで西国の朝廷に対抗するか、あるいはむしろ西国の朝廷に従って東国と対決するかの二つの道が必ず選ぶ時が来るとしている。そして東国と東北が戦った前九年合戦、後三年の役を経て関東において源氏が武士の棟梁になった過程を書いている。そして最後に平氏が海賊的武士たちの棟梁というべき存在になった過程を書いている。
八「東国国家と西国国家」では、主に平清盛源頼朝について書かれている。前半では主に平氏が目指した西国国家について書き後半では、頼朝の東国支配について書き締めくくっている。
 九「荘園・公領の東と西」では、主に若狭を例に挙げ西国は郷よりも名によって構成されているといったほうがよいと述べ 西国の特徴としている。それに対し東国の場合は、陸奥常陸を例に挙げ、もとより在庁名は存在するが、それは国衙の所在する郡、ないし常陸の鹿島社のような一宮の周辺のみに限られていると述べ東の特徴としている。また東は畠作、西は水田という違いについても書かれている。
十「イエ的社会とムラ的社会」では、東国は一族単位で勤仕していることに対し西国御家人は守護に率いられ国ごとに勤務していたことを東と西の違いとしている。また東国は、イエ的、家父長的、主従性的であり西国は、ムラ的、年齢階梯的、座的であると述べ東と西の相違としている。
 十一「系図にみる東西」では、若狭の人々がごく例外的にしか東国の人と結婚してないことを例に挙げている。そしてこのことから中世の東国人と西国人の婚姻には、多少なりとも拒否的な力が働いていたことは間違いないという筆者の考えが述べられている。
 十二「東は東、西は西」では、東の鎌倉幕府、西の朝廷のそれぞれの支配について触れ、承久の乱での勝利後の東国の御成敗式目制定の過程を書きそれを東国国家樹立のあかしと述べている。しかしそれはあくまでも東国のみであり御成敗式目が朝廷に深く関与しないことから東と西は一つにはなっていなかったと述べている。その関係が元寇による鎌倉幕府による全国の武士動員で崩れたとして締めくくっている。
 十三「東と西を結ぶもの」では、僧侶の東と西との交流を鎌倉時代後期を例に挙げて述べている。また職人の東と西との交流を忍性が西から伴ってきた石工たちによって残されている東国にある石造物を例に挙げ述べている。そして交通面では、伊勢海からの東国への道や東海道の交通の盛んさを例として述べている。
 十四「東国と九州、西国と東北」では、建武の新政を行う後醍醐天皇に対する足利尊氏の反乱を例として挙げ、東北と結び東国を牽制しようとする西国の後醍醐天皇に対し、九州を指揮下に入れ対抗しようとした尊氏という図式から東北と西国、東国と九州のつながりを述べている。
 十五「東の文化と西の文化」では、東国には日光山を東国における比叡山の位置づけをしていたとはじめに述べられている。また日光だけでなく東国国家は独自の祭祀の体系、年中行事の体系を完成させていたと述べている。他には、室町・戦国期ごろから、東国は馬西国は船という表現が使われていたことを述べ文化の違いがはきっりしていたと述べている。最後に現在の東と西について書きこの章を締めくくっている。
この中から私が指摘したいことを挙げていきたい。
 一つは三考古学から見た東と西と四古代の東国と西国で述べられている狗奴国は毛野国であるという点についてだ。倭の女王卑弥呼は狗奴国の男子の王である卑弥弓呼とと不和であり二国の間で戦闘が行われていたという魏書「倭人伝」の記述から邪馬台国の支配を受けていた地域と隣接していたことがわかる。確かに魏書「倭人伝」のもあるように邪馬台国と狗奴国との間にはいくつもの国があったことから狗奴国が邪馬台国から離れていてもおかしくはない。しかし邪馬台国の場所がはっきりしていない時点で狗奴国が毛野国という前提で書いていることに対しては言い切ることはできないことでありこのことを肯定的にとらえている筆者の意見に疑問を感じた。
二つ目は142ページに書かれている「幼帝安徳と神器を擁して西国に下った平氏一門は、状勢そのものに押された結果であるとはいえ、むしろ清盛以来の構想―海洋的性格をもつ西国国家の樹立に向かって、積極的に動き出した。一戦も交えずに京を捨てた平氏の動きをこのようにみることも可能、と私は考える。」という記述についてだ。
もし仮に筆者の述べるように西国国家の樹立に向かって動く出したとしたならばなぜ木曽義仲に敗れ都落ちをしたタイミングなのかという疑問が生まれた。また平宗盛が父清盛に対し福原から京都に遷都(かんと)することを進言していたことから宗盛が京都ではない福原や西国を中心とした海洋的性格をもった国家樹立を目指したということにも疑問を感じた。
確かに平清盛は福原を都とし宋との貿易などで国を富ませる海洋的性格を持った国家を目指していた。だからと言って宗盛らも同じことを望み動いたと言い切ることはできない。実際頼朝が反乱を起こした際高倉天皇は都を京に戻すことを主張したこの際宗盛も高倉天皇に賛同していた。このことから宗盛は頼朝等反乱軍と戦うには京に都をおき対処することが最善だと考えていたことがわかる。また木曽義仲の入京後、後白河院との皇位継承問題などで対立している際に九州、四国、中国地方の勢力圏を回復し安徳天皇讃岐国の八島内裏から福原旧都に動座させ軍勢を集結させていることから京都奪還を目論んでいたと考えることができる。さらに本書では海洋的な性格を持つ国家の都を九州に置こうとしていたと述べているが九州を回復した時点でそこに腰を据えるのでなく東進の道を選んでいることからも西国国家樹立に積極的に動いたということはできない。
また清盛が目指した国家造りは海洋的な国家といえるが、平氏一門は朝廷の制度内の高い官職に任命されることや天皇との外戚関係などで権力を手に入れていたことから朝廷を完全に無視した国家を作ろうとしたとは考えにくい。そのためいずれは京都奪還し後白河院と交渉または再びの院制停止をさせ安徳天皇を認めさすしか道はなかったはずである。このことからも西国に独自の国家を作ろうと動き出したとは考えにくい。以上のことから筆者の意見を指摘したい。
 以上がこの本の紹介と私が抱いた疑問点と指摘したい点である。この本は様々な点から東と西を比べ違いを述べている。批判点や疑問点を挙げたが全体的にみれば良書といえる。
 参考文献
(1) 正史三国志4魏書Ⅳ 陳寿 裴松之 注 今鷹真・小南一郎訳
(2) 源頼政木曽義仲 勝者になれなかった源氏 永井晋 中公新書 2015年8月25日発行