まえたなのblog

主に観光関連,好きな本、自分の考えなどについて書きます

エコツーリズムとは

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エコツーリズムの概要と課題

エコツーリズムとは
 観光旅行者が、自然観光資源について知識を有する者から案内または助言を受け、当該自然観光資源の保護に配慮しつつ当該自然観光資源と触れ合い、これに関する知識および
理解を深める活動のこと。環境問題への関心の高まりや観光による自然への悪影響などの問題から自然に配慮した観光を行うために推進された。
基本理念
エコツーリズムには下記の4つの基本理念が存在する。
・自然環境への配慮・観光振興への寄与・域振興への寄与・環境教育への活用
地域の取り組み状況とその地域

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環境省のサイト参照
活動例
秋田県藤里町白神山地において岳岱自然観察教育林や田苗代湿原,太良峡コースなどでおこなわれているガイドツアー
静岡県富士郡芝川町の富士山麓地域では、遊牧民キャンプ、富士山冒険学校、火山洞窟講座、熱気球教室、週末自然体験広場などの活動が行われている。
・鹿児島県熊毛郡上屋久町の屋久島地域では、森歩き、登山、沢登り、リバー・シーカヤック、ダイビングガイドなどの活動が行われている。
これらの活動により新たな観光客を呼びこむことに成功している。また就学旅行の際にも利用され教育活動にも貢献している。
課題
エコツーリズムには主に、認識に関する課題とエコツアー参加者の増加に向けた課題とエコツーリズムに取り組む地域や事業者の増加に向けた課題の3つがある。
認識に関する課題
ツアーの参加者が自然の中での体験をする点においては同じであってもその背景となる考え方が異なっていることが多い。またエコツーリズムに関する用語を旅行者だけでなく、場を提供する地域や観光業の人も十分に理解できていないことがある。これらを改善するためにも資源の状況やマーケット性などのモデルを示し認知を拡大させる必要がある。
エコツアーの参加者増加に向けた課題
それぞれの地域がエコツーリズムに積極的に取り込んで受け入れの準備を整えてもその状況をうまくマーケットに伝えることができていないことがある。また関連の事業者は、環境に配慮した高質なサービス内容を揃えたとしてもそのことをアピールする客観的な基準がないため、地域や観光業者などのエコツーリズムへの取り組みや販売を滞らされている。そのためエコツーリズムへの取り組みを表す基準を作り公開する必要性がある。またエコツーリズムに親しみやすいいイメージをつくり参加のしやすい環境づくりをしていく必要性がある。
エコツーリズムに取り組む地域や事業者の増加に向けた課題
豊かな自然があり、自然保護と活動に関する情報が集まりやすく観光客を増やしているところも多い。しかし反対に里地などでは身近に自然があるにもかかわらず、ノウハウ不足が原因により取り組みを行うことのできないところも多く存在している。そのため地域の状況に合わせたノウハウをまとめ公開し共有していくことが必要とされている。
以上がエコツーリズムの概要と抱える主な課題である。
参考文献
(1) 観光学キーワード 山下晋司 有輩閣双書 2011
(2) http://www.env.go.jp/nature/ecotourism/try-ecotourism/area/index.html

今様の歴史

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  今様の歴史
今様
平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて今様が流行した。しかし歴史の書物の中に初めて登場するのは一条天皇の時代である。もとは農民のなかで広まっていたが雅人親王、後の後白河院がこれに熱中し梁塵秘抄にまとめた。一説によると今様を歌いすぎて何度も喉をつぶしたとか。また農民以外の今様の主な担い手は、遊女や傀儡、白拍子であった。農民から貴族、天皇まで誰でも親しみ、歌うことのできるものだったが遊女や傀儡、白拍子等は今様に舞をつけ歌う今でいうプロのような存在であった。また今様は庶民からも人気があったためその内容からその当時の人々の生活や思いなどを垣間見ることができる。例えば、「鵜飼はいとほしや 万劫年経る亀殺し なた鵜の首を結ひ現世はかくてもありぬべし 後生わが身をいかにせん」という歌では、自らの生活のため亀などいきものを殺さなければならないことに対する罪の思いが込められている。現代の音楽とは形は違うが感情を歌にしている点においては現代のポプュラー音楽の歌詞と似ているてんでもある。
歴史的観点から見る今様
今様が歴史に与えた影響の一つとして後白河院の誕生がある。もともと皇位継承するとは思われておらず後白河天皇即位は皆を驚かせる出来事だった。雅人親王(後の後白河天皇)は非常に今様に興味を持ち、歌のうまい人がいるという話を聞くと身分を問わず屋敷に招き教えてもらっていた。そんなことから政治に興味がなく野心のない人だと思われていた。そんなこともあり近衛天皇崩御したのち鳥羽上皇は、雅人親王天皇にすれば操りやすく自分が実権を握れると考え即位させたと言われている。後白河天皇の誕生が朝廷内での争いの原因の一つとなり後の保元の乱へと続く。これらは後白河天皇が今様にあまりにも熱中しすぎた延長線上の結果ともいえることから意図せず「今様」は歴史に大きな影響を及ぼしたポプュラー音楽のひとつといえる。  
平安中期にみられる今様
 今様が最も流行したのは平安末期であるが平安時代中期に書かれた『紫式部日記』にも登場している。『紫式部日記』には次のように書かれている。「琴・笛・の音などにはたどたどしき若人たちの、読経あらそひ、今様歌どもも、所につけてはをかしかりけり」。この記述から平安中期にはすでに歌われ貴族階級の人たちにも認知されていたことが分かる。またこれより前の寛弘5年の5月22日の土御門殿での法華三十講結願の記事にも法要がおわった後、今様が歌われたとある。またこの時期から約2、30年後の後朱雀天皇の時代にも今様が歌われていた。『吉野吉水院楽書』という鎌倉時代の楽書には、「今様の殊にはやることは後朱雀天皇の御時より也」と書かれている。以上のことから今様が梁塵秘抄のまとめられる前から平安の世では流行していたことが分かる。
その後の今様 
 平安時代に流行した今様だが鎌倉時代には衰退の道をたどった。中には宮廷行事の一部として残ったが江戸時代の頃にはほとんど歌われなくなった。また兼好法師の書いた「徒然草」の中に梁塵秘抄についての記述が残されている。そこには、「歌の言葉にはしみじみと感動させられることが多い」と書かれている。しかし今様に関する記述はこれだけでありその後書かれることはなかった。このことから分かるように平安のポプュラー音楽として流行した今様は鎌倉以降には完全にブームがおわっていたことが分かる。
 その後数百年が過ぎ明治末から大正初めにかけて再び注目された。その原因は、歌詞集巻一断簡と巻二、口伝集巻一断簡が発見されたことであった。これは研究対象以外にも詩人や歌人にも大きな影響を与えた。また2007年に刊行された伊藤比呂美の長篇詩『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』にも影響がみられるなど様々なところに影響を及ぼしている。また大河ドラマ清盛でも取り上げられたことで再び注目された。今後もまた注目を集める可能性がある。
参考文献
(1) 梁塵秘抄 後白河院 植木朝子
(2) 平清盛をめぐる101の謎 川口素生 2011

 

東と西の語る日本史

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東と西の語る日本の歴史」という本について
この本は
一はじめに くらしのなかの東と西
二「ことば」と民俗―東と西の社会の相違―
三考古学からみた東と西
四古代の東国と西国
五「しゅう馬の党」と「海賊」
六東の将門、西の純友
七源氏と平氏―東北・東国戦争と西海の制覇― 
八東国国家と西国国家
九荘園・公領の東と西 
十イエ的社会とムラ的社会
十一系図にみる東西
十二東は東、西は西 
十三東と西を結ぶもの 
十四東国と九州、西国と東北 
十五東の文化と西の文化
におおまかに分けて書かれている。
 一「はじめに」では、はじめに私たちの暮らしの中での東と西の違いについて述べている。そして日本人は同じ言語、同じ人種からなる単一の民族であるという通念、にあまりにも親しみすぎているのではないかという疑問のもと論を進め土地によっては言葉はまるで違うことを例に挙げ東と西の違いについて述べている。
 二「「ことば」と民俗」では、「ことば」主に方言に注目して書かれている。他には東と西での嫁と夫の関係の違いについても書かれている。
 三「古学からみた東と西」では、戦後の考古学の発達により次々と発見され報告されたことから分かる東と西との違いについて書かれている。この章で筆者は、芹沢長介氏の、石器作製における東と西との違いの見解を紹介している。加えて、安田喜憲氏の、東の細石刃文化(荒屋型彫刻刀をセットする)には北方の亜寒帯的要素が、西の細石刃文化(半円推型石核を特色とする)には南方の落葉広葉樹林(コナラ・イヌブナ・アカシデなど)の温帯的要素が、それぞれ強く結びついているという指摘を紹介し、東と西との文化の違いは二万年前に根を持っていたと述べられている。また縄文時代における東と西との遺跡や文化の違いや弥生文化の広がり、古墳の拡大などについても書かれている。
 四「古代の東国と西国」では、石井良助しの毛野氏に対する、大和朝廷に対する独立国
家たるの地位を有し、さらに狗奴国こそその前身であるという考えを紹介している。それに対する井上光貞氏の東国を大和の王権による新たな征服地とみる、東国の大和勢力に対する隷属性を強調するという石井氏の対極の意見も紹介している。また西と東との違いにおいては、西は主に船で戦う水軍としての軍事力であり東は騎馬としての軍事力とされていたことに触れて述べられている。それとは別に東国には東北の蝦夷に対する軍事力としての役割があったと述べ締めくくっている。
 五「「しゅう馬の党」と「海賊」」では、九世紀半ば以降、しばらく平穏であった社会が西と東で動き出はじめ、十世紀初頭の延喜の改革をへて、承平・天慶の乱に至る過程が書かれている。この章で述べられている東と西の違いは、西では海賊による反乱が多く、そこでは四章で述べられていた通り船による活動が活発であったと書かれている。それに対し東では、「弓型騎兵武者」だけでなく東国の特徴として東国独自の製鉄技術の発展があったのではないかという研究があることを紹介し西との違いを述べている。
 六「東の将門、西の純友」では、この章の名前にある通り将門と純友の反乱について書きそこから分かる東と西の違いについて述べている。この章で筆者は、将門には全国を支配する意志は毛頭なかったが、東国を支配し独自の国家機構を樹立しようとし、短期間でもそれは実現したという持論を述べている。そしてそれは最初の東国「民族」史における最初の国家の成立としている。また純友の反乱に対しては、船による迅速な機動性をもち、集中的な破壊力をもつとはいえ、すでに陸地に強固な基礎をもつ「本天皇」の国家―王朝国家に対して、水軍による海賊が組織的な国家―海上国家―を作り上げることは、所詮、不可能であり、純友軍の動き自体にも、それをうかがうことはできないと述べている。そして東西の反乱が鎮圧されたのち、水軍としての実力を蓄えた海賊たちが伊勢平氏の武力的な基盤ちなり、東国の騎馬武者を従えた源氏と戦うこととなっていくとして締めくくっている。
 七「源氏と平氏―東北・東国戦争と西海の覇者―」では、はじめの承平・天慶の乱のその後の西国と東国について書かれている。また東北の国家についても触れている。そして安部氏、清原氏藤原氏を例として挙げ東北には東国と結んで西国の朝廷に対抗するか、あるいはむしろ西国の朝廷に従って東国と対決するかの二つの道が必ず選ぶ時が来るとしている。そして東国と東北が戦った前九年合戦、後三年の役を経て関東において源氏が武士の棟梁になった過程を書いている。そして最後に平氏が海賊的武士たちの棟梁というべき存在になった過程を書いている。
八「東国国家と西国国家」では、主に平清盛源頼朝について書かれている。前半では主に平氏が目指した西国国家について書き後半では、頼朝の東国支配について書き締めくくっている。
 九「荘園・公領の東と西」では、主に若狭を例に挙げ西国は郷よりも名によって構成されているといったほうがよいと述べ 西国の特徴としている。それに対し東国の場合は、陸奥常陸を例に挙げ、もとより在庁名は存在するが、それは国衙の所在する郡、ないし常陸の鹿島社のような一宮の周辺のみに限られていると述べ東の特徴としている。また東は畠作、西は水田という違いについても書かれている。
十「イエ的社会とムラ的社会」では、東国は一族単位で勤仕していることに対し西国御家人は守護に率いられ国ごとに勤務していたことを東と西の違いとしている。また東国は、イエ的、家父長的、主従性的であり西国は、ムラ的、年齢階梯的、座的であると述べ東と西の相違としている。
 十一「系図にみる東西」では、若狭の人々がごく例外的にしか東国の人と結婚してないことを例に挙げている。そしてこのことから中世の東国人と西国人の婚姻には、多少なりとも拒否的な力が働いていたことは間違いないという筆者の考えが述べられている。
 十二「東は東、西は西」では、東の鎌倉幕府、西の朝廷のそれぞれの支配について触れ、承久の乱での勝利後の東国の御成敗式目制定の過程を書きそれを東国国家樹立のあかしと述べている。しかしそれはあくまでも東国のみであり御成敗式目が朝廷に深く関与しないことから東と西は一つにはなっていなかったと述べている。その関係が元寇による鎌倉幕府による全国の武士動員で崩れたとして締めくくっている。
 十三「東と西を結ぶもの」では、僧侶の東と西との交流を鎌倉時代後期を例に挙げて述べている。また職人の東と西との交流を忍性が西から伴ってきた石工たちによって残されている東国にある石造物を例に挙げ述べている。そして交通面では、伊勢海からの東国への道や東海道の交通の盛んさを例として述べている。
 十四「東国と九州、西国と東北」では、建武の新政を行う後醍醐天皇に対する足利尊氏の反乱を例として挙げ、東北と結び東国を牽制しようとする西国の後醍醐天皇に対し、九州を指揮下に入れ対抗しようとした尊氏という図式から東北と西国、東国と九州のつながりを述べている。
 十五「東の文化と西の文化」では、東国には日光山を東国における比叡山の位置づけをしていたとはじめに述べられている。また日光だけでなく東国国家は独自の祭祀の体系、年中行事の体系を完成させていたと述べている。他には、室町・戦国期ごろから、東国は馬西国は船という表現が使われていたことを述べ文化の違いがはきっりしていたと述べている。最後に現在の東と西について書きこの章を締めくくっている。
この中から私が指摘したいことを挙げていきたい。
 一つは三考古学から見た東と西と四古代の東国と西国で述べられている狗奴国は毛野国であるという点についてだ。倭の女王卑弥呼は狗奴国の男子の王である卑弥弓呼とと不和であり二国の間で戦闘が行われていたという魏書「倭人伝」の記述から邪馬台国の支配を受けていた地域と隣接していたことがわかる。確かに魏書「倭人伝」のもあるように邪馬台国と狗奴国との間にはいくつもの国があったことから狗奴国が邪馬台国から離れていてもおかしくはない。しかし邪馬台国の場所がはっきりしていない時点で狗奴国が毛野国という前提で書いていることに対しては言い切ることはできないことでありこのことを肯定的にとらえている筆者の意見に疑問を感じた。
二つ目は142ページに書かれている「幼帝安徳と神器を擁して西国に下った平氏一門は、状勢そのものに押された結果であるとはいえ、むしろ清盛以来の構想―海洋的性格をもつ西国国家の樹立に向かって、積極的に動き出した。一戦も交えずに京を捨てた平氏の動きをこのようにみることも可能、と私は考える。」という記述についてだ。
もし仮に筆者の述べるように西国国家の樹立に向かって動く出したとしたならばなぜ木曽義仲に敗れ都落ちをしたタイミングなのかという疑問が生まれた。また平宗盛が父清盛に対し福原から京都に遷都(かんと)することを進言していたことから宗盛が京都ではない福原や西国を中心とした海洋的性格をもった国家樹立を目指したということにも疑問を感じた。
確かに平清盛は福原を都とし宋との貿易などで国を富ませる海洋的性格を持った国家を目指していた。だからと言って宗盛らも同じことを望み動いたと言い切ることはできない。実際頼朝が反乱を起こした際高倉天皇は都を京に戻すことを主張したこの際宗盛も高倉天皇に賛同していた。このことから宗盛は頼朝等反乱軍と戦うには京に都をおき対処することが最善だと考えていたことがわかる。また木曽義仲の入京後、後白河院との皇位継承問題などで対立している際に九州、四国、中国地方の勢力圏を回復し安徳天皇讃岐国の八島内裏から福原旧都に動座させ軍勢を集結させていることから京都奪還を目論んでいたと考えることができる。さらに本書では海洋的な性格を持つ国家の都を九州に置こうとしていたと述べているが九州を回復した時点でそこに腰を据えるのでなく東進の道を選んでいることからも西国国家樹立に積極的に動いたということはできない。
また清盛が目指した国家造りは海洋的な国家といえるが、平氏一門は朝廷の制度内の高い官職に任命されることや天皇との外戚関係などで権力を手に入れていたことから朝廷を完全に無視した国家を作ろうとしたとは考えにくい。そのためいずれは京都奪還し後白河院と交渉または再びの院制停止をさせ安徳天皇を認めさすしか道はなかったはずである。このことからも西国に独自の国家を作ろうと動き出したとは考えにくい。以上のことから筆者の意見を指摘したい。
 以上がこの本の紹介と私が抱いた疑問点と指摘したい点である。この本は様々な点から東と西を比べ違いを述べている。批判点や疑問点を挙げたが全体的にみれば良書といえる。
 参考文献
(1) 正史三国志4魏書Ⅳ 陳寿 裴松之 注 今鷹真・小南一郎訳
(2) 源頼政木曽義仲 勝者になれなかった源氏 永井晋 中公新書 2015年8月25日発行

 

前漢の歴史

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前漢の歴史
 初めて中華全土を統一した秦の滅亡後、垓下の戦いで項羽を滅ぼした劉邦は、自ら高祖となり漢を建国した。いわゆる前漢である。前漢は紀元前202から王莽により政権を奪われる紀元後8年まで続いた王朝である。漢の高祖劉邦は、都を長安として帝国の基礎を築いていった。
 呉楚七国の乱 
 漢の代6代皇帝、景帝の即位後、前154年に、有力な諸侯のうちの、呉、楚、趙など中国南東部の7国が、中央政権に対して連合し、挙兵した内乱が呉楚七国の乱である。軍を派遣したが鎮圧に失敗した景帝は、懐柔策として削藩策を提唱した晁釋錯を斬り、妥協を図った。しかし反乱は収まらず、呉王は「東帝」と称して戦闘を続けた。その後この反乱は呉王らが殺され鎮圧された。この乱の後、諸侯王の領土は削られ、種々の禁令が設けられて、王とは名のみで租税を徴収するだけとなった。これにより、皇帝の中央集権的支配が強まり支配体制が確立した。この後6代皇帝景帝の後を継いだのが7代目皇帝である武帝である。武帝の時代は前漢の最盛期ともいわれている時代である。
武帝の治世
 武帝前漢の7代目皇帝でありその時代では、儒学の官学化や匈奴征伐、支配領域の拡大など様々なことが行われた。
 前漢匈奴と対外政策 
3代目の文帝と4代目の景帝の時代では、匈奴にたいしてあや絹の着物や匈奴の使う帯の金具などの贈り物を送る懐柔策がとられていた。しかし武帝は先代たちとは違い懐柔策を取らなかった。馬邑の役では武帝の計画が失敗に終わることになった。しかしその後の衛皇后の弟、衛青の武勲は目覚ましく7度、長城を出て匈奴をうち毎回成功させた。そのため武帝は衛青を大将軍に任命した。また衛青同様に匈奴討伐で功績をあげた霍去病はその後の遠征時に衛青とともに最高の官位である大司馬に任じられている。この二人が武帝の治世で最も活躍をした人物である。しかしそのわずか4年後に霍去病が死去し匈奴に対する遠征は、以後ずっと武帝の末年まで行われることはなかった。この度重なる匈奴遠征は漢の支配領域を拡大させた。
前112年には、ベトナムの南越を滅ぼして日南郡などを置き、前108年には朝鮮にも進出して楽浪郡以下の四郡を置いて直轄領とした。このように武帝は積極的な外征を行った。積極的な外征の背景には、国内に満ちていた困窮した農民たちの生活を安定させるために、新しい農耕地を開拓する必要に迫られていたという理由があった。
武帝による儒教の官学化
 武帝は統治理念として儒教を用いた。特に儒学者董仲舒が登用され、彼の建言によって、儒学は漢の正式な官学、国教とされた。これに伴い五経博士が設置され官僚は儒学経書とされる五経を学ぶようになった。
大祭祀、封禅の儀
武帝が47歳の時に大祭祀、封禅の儀が山東省の泰山で行われた。封禅とは、「天下」が太平の状態のことを天子が天地に告げる祭りである。
中央集権化を進めた武帝
武帝が即位した時には、前代の遺制である「封建」の制度が「郡県」(天子の派遣する地方官によって帝国の全地域が統治される中央集権の制度)へとあらかた切り替わっていた。そのことを高祖、景帝に続いて郡県制の施行地を拡大し、さらに中国南部や朝鮮半島への郡県制を拡大した。また官吏登用制度では郡県制を基盤として郷挙里選の制度を設け、人材登用を図った。
 郷挙里選 
漢王朝、前2世紀の後半の武帝時代以降の官吏登用制度。武帝以前の官吏は、高官の子弟か裕福な者の子弟から登用されていたが、国家機構が拡大するにつれて人材の登用が必要となり、武帝は郡県の下の郷、さらにその下の里から、賢良方正な人物を推薦させた。このような、里から選び、郷から挙げられた人を地方長官から中央に推挙することを郷挙里選、または推薦で官吏を選ぶことを単に「選挙」といった。
武帝の財政政策
塩・鉄・酒の専売制 塩・鉄は生活に欠かせない食品と用具であるため塩商人や鉄商人は巨利を得ていた。武帝は大商人の利益を国家の利益とするためにまず前120年に塩・鉄を、前98年には酒を専売制とした。
均輸法・平準法 武帝は財務官僚桑弘羊の提言を採用し、均輸官を置いて物質の余っている地方から買い取り、不足する地域に売って利益を得る均輸法と、物価を高くし、沸貫した時に売って利益を得る平準法を採用した。
五銖銭の発行 増税・専売制などの前提になるのが貨幣制度の統一であった。そのため武帝は新しく五銖銭の発行をして貨幣制度の統一を図った。
武帝の晩年
 武帝の皇太子である戻太子が、武帝が66歳の時に反乱を起こした。原因は、武帝の晩年に検察官に任命された江充である。江充は大臣であろうと皇太子であろうと摘発した。このため戻太子の派遣した使者の不敬を摘発しこれがもとで戻太子が江充を憎むようになった。このことが理由で江充は武帝亡き後戻太子が皇帝となったときの自分の地位を心配し戻太子が武帝に対して巫蠱の妖術を行ったとする罪を捏造し武帝に報告した。これにより追い込まれた戻太子は挙兵した。しかしこの反乱は武帝により鎮圧され戻太子は自殺する結果となった。この反乱のため武帝は皇太子と皇后を殺すこととなった。これが武帝に起きた悲劇である。
この後武帝は、末子の劉弗陵を皇太子として霍光、金日磾、上官桀の3人に後を託し亡くなった。  
以上が前漢の歴史と武帝の治世である。
 
参考文献
(1) 漢の武帝 吉川幸次郎 岩波新書 1949
(2) https;//www.y-history.net/appendix/.wh0203-085.html
(3) https://www.y-history.net/appendix/.wh0203-090.html
(4) https;//www.y-history.net/appendix/.who0203-092.html

君の名はとアニメツーリズム

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「君の名は」と聖地
はじめに「君の名は」というアニメ作品について解説する。この作品は、2016年に公開された新海誠監督による長編アニメーション映画である。興行収入は250億と大ヒットした。また海外でもブームとなり中国では興行収入が95億円にまで上がった。その人気に伴い聖地巡礼をする人も増加した。聖地としては映画の主人公の一人瀧という少年の住む東京。もう一人の主人公が住む糸守の駅のモデルとなったとされる飛騨古川駅。そして糸守湖のモデルといわれる諏訪湖などがある。

「君の名は」が与えた観光需要への影響
上で述べたように日本だけでなく海外でも人気が出たため、その聖地へは海外からの観光客も大勢訪れている。
 また中でも特に聖地として有名な飛騨市は、聖地巡礼ブームを町お越しのために利用しそのホームページでは「君の名は」の聖地巡礼ルートを紹介し観光客を呼び込んでいる。その影響は数字にも出ている。岐阜県高山市では2016年の外国人観光客の宿泊者数が約42万人を超え過去最多となった。飛騨市全体では、2016年の観光客数が2015年に比べ3.6%増え100万5881人であった。また映画の中に出てくる図書館のモデルの飛騨市図書館への聖地巡礼者も約4万人であった。このように「君の名は」による影響は大きく観光客を大勢呼び込むことに成功している。  
また私が訪れた諏訪市にある諏訪市にも聖地巡礼者が映画が公開されてから数年がたった今でもたくさん訪れている。
諏訪にある二つの聖地
諏訪市には二か所「君の名は」の聖地として知られている場所がある。一つが諏訪湖を見渡すことのできる立石公園。もう一つが高ボッチ高原である。この二つの場所からの諏訪湖の風景が映画に出てくる糸守湖ととても似ていると言われている。そのため「君の名は」の聖地とされ多くの人が訪れている。
下の写真が立石公園からみる諏訪湖

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諏訪湖が立石公園から見ると丸く見ることができ糸守湖は丸いことからモデルではと話題になった。
「君の名は」から考えるアニメツーリズムの可能性と今後
平成28年9月16日にアニメツーリズム協会が設立され、数多くの出版業や自治体、企業、団体が正会員として参加している。またアニメ聖地を88カ所選定し複数のアニメ聖地巡礼ルートを作り、2020年に地域に年間400万人の外国人観光客を呼び込もうとしていた。コロナウイルスの感染拡大によって観光客が激減しているがコロナ終息後には何年間かは海外は厳しいが国内の観光が活発になり更なる盛り上がりが期待できる。また人気アニメが生み出されるたびにモデルとなった地域や建物、風景は聖地巡礼の対象となる。それによって観光客を呼び込み町の活性化を図ることができる。この点からもまだまだ今
後アニメツーリズムには期待することができる。
参考文献とURL
(1) https://bookvilogger.com/kiminonaha-hida
(2) https://blog.goo.ne.jp/isesakicity/e/41ef9d03d11b5dfebc1e0cd36a06ef3d
(3) https://globalize.lifepepper.co.jp/anime-tourism/
(4) https://www.glocaltimes.jp/7316

源平合戦が好きな人へのオススメな本

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源頼政木曽義仲 勝者になれなかった源氏について

 平安末期、保元の乱平治の乱源平合戦を経て鎌倉時代へと移り変わっていった。源平合戦での勝者となり鎌倉幕府を開いた源頼朝は源氏である。しかし源氏の一族がみな勝者となったわけではなく源頼政木曽義仲のように敗者となり滅んでいった源氏も存在する。その二人、源頼政木曽義仲らを中心に第一章保元・平治の乱へから第五章木曽義仲後白河院、そして源頼朝、そして終章残された人々を通して平安末期について書いている。 
第一章保元・平治の乱へでは保元・平治の乱を通しての、天皇家藤原氏平氏、源氏の権力闘争が書かれている。保元の乱での勝者となった信西入道が平治の乱で亡くなりその後二条天皇親政派と後白河院派との対立を書き二条天皇崩御六条天皇即位、後の高倉天皇立太子で締め第二章へとつなげている。この章で私が抱いた疑問点は、なぜ六条天皇の次を以仁王ではなくまだ幼い高倉天皇にしようとしたこと、またそれに伴っての以仁王に対しての待遇である。確かに後白河院から見た場合平氏との連携を強めるために平滋子の子供を天皇にしたっかたことは考えられる。しかし「八条院と接点をもった以仁王を警戒しなければならない存在となりつつあった」という本の記述から以仁王が警戒すべき対象になるのであれば間をつなぐ天皇または何らかの重要な地位に就かせ対立を回避させることができたのではないかという理由から疑問に感じた。
 第二章平清盛全盛期では高倉天皇の即位から始まる平清盛の一族の台頭から書かれている。そこから、平滋子の死により後白河院の寵姫が高階栄子となりそれにより高階泰経を中心とする新たな院の側近集団が形成され後白河院と清盛との関係が疎遠となり対立していく過程が書かれている。そして鹿ケ谷の陰謀、清盛のクーデターを経て清盛による権力の奪取、その後の安徳天皇即位で締められている。またこの章では八条院以仁王源頼政とのつながりや崇徳院の怨霊にも述べられてる。この章で私が抱いた疑問点は「鹿ケ谷事件は、後白河院延暦寺の大衆と平氏の軍勢を衝突させ、その隙をついて京都の街を武力制圧して平清盛を失脚させようとした事件である」という記述についてだ。なぜならこの本の記述にもあるが、後白河院天台座主明雲を解任したことから朝廷と延暦寺との関係は決して良いものではないため協力関係となるには無理があるからだ。また後白河院が計画したという点について指摘したい。後白河院が鹿ケ谷に行幸した際、藤原成親が酒の入った瓶子を袖で倒し「平氏倒れ候ぬ」とはしゃいでいる。そのようなことから後白河院がこの成親らの様子をみて本気で平氏打倒を計画したとは考えにくい。また成親らが流罪となっているのに清盛が後白河院に対して何もしていないということは後白河院が直接関わっている決定的なものがなっかたからであろう。治承三年のクーデターにより後白河院を清盛が幽閉していることから決定的な証拠があれば鹿ケ谷の陰謀の際に幽閉していてもおかしくはない。
 第三章以仁王の挙兵では安徳天皇即位に始まり、以仁王源頼政の挙兵を経て福原遷都、その後の頼朝挙兵で締められている。紀伊国での熊野新宮合戦時に湛増が福原の清盛に対して大戦の経緯と、その背後に源行家以仁王の陰謀があると報告したことが端を発し、以仁王がだんだんと清盛に追い込まれていき最後は挙兵して敗れ死んでいく過程が書かれている。また以仁王に味方するか追補使としての役割を果たすのかに苦悩した源頼政の立場も書かれている。ここで私が指摘したい点は頼政が苦悩したうえで五月二十二日未明に園城寺に入りその時反旗を翻したと説明している点だ。治承四年四月九日に以仁王源頼政が謀議のうえで、諸国の源氏と大寺社に平家追追の令旨を下していることから、ぎりぎりまで頼政以仁王に味方し平家に反旗を翻すことについて苦悩していたということはおかしい。以上のことから指摘したい。
 第四章木曽義仲の激闘では木曽義仲の挙兵に始まり、義仲の上野国の進出、横田河原の戦いを通して武家の棟梁と認められ勢力を拡大する過程が書かれている。またその後の俱利伽羅峠の戦い、平家都落ちを書きこの章を締めくくっている。この章で私が疑問に感じた点は、「養和元年の段階で、源頼朝の勢力圏は亡父義朝の時代よりも広くなっていた。ここで朝廷に帰順しても、頼朝にとって満足のいく結果ということができる。」という記述についてだ。なぜなら頼朝が挙兵した理由が平家討伐であり領地拡大が一番の理由ではないからだ。また平氏が都にいるこの時点で平氏と停戦し朝廷に帰順したとしても頼朝側のメリットは何もない。このことからとても満足のいく状況ではないといえる。また本書では、坂東で孤立した状態に頼朝がいたから後白河院からの接触に、積極的に受け入れる姿勢を示したとあるが朝廷における最高権力者である後白河院からの接触に応じないことは後白河院との関係を築けないどころか今後の関係を悪化させる可能性すらある。よって頼朝が後白河院接触したことは決して孤立したからではなく平氏と戦う上でまた平氏に代わり政権を取った後をみた場合後白河院と友好関係であることは最重要事項であるからだ。このことは、頼朝が頼朝に従い戦った御家人本領安堵により主従関係を築いたことから土地の支配に関しての任命権を持っている後白河院との関係がとても重要であるということがわかる。これらのことから上記にあげた二点に対して疑問を抱いた。 
 第五章木曽義仲後白河院、そして源頼朝では、朝廷での恩賞問題や皇位継承問題をめぐる後白河院木曽義仲との対立、その後の義仲の孤独になり滅んでいく過程が書かれている。 
最終章残された人々では、以仁王源頼政の子や見方であり生き延びた人々の人今後を書き締めている。

私の京都記6の前半天橋立遍

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今日は久しぶりにバイトの休みを取った日曜日。白色のコートにいつものベージュのマフラーで準備は万端。朝8時に家を出て京都駅へ向け出発。33番線初の電車に乗り園部で乗り換え福知山へと向かう。今日の目的地は天橋立雪舟お金があればサンダーバードに乗ってみたいけど今日は節約。

 電車に揺られながら窓も外を見る。京都駅を出てすぐの保津峡周辺の景色は見逃せない。次は保津峡駅で降りてみようかな。電車に乗ること約2時間。福知山に到着。何気に遠い。さらにここから私の大好きな丹後鉄道に乗りさらに北へと向かう。昨夜雪が降ったみたいで沿線には雪景色が広がっている。私のイメージだけど丹後は晴れというより雪が似合ってるからなんだかうれしい。やっぱり冬が好きだなぁわたしは。

 さすが日本三景のひとつの天橋立。観光客がいっぱい。外国人の人もけっこういる。駅を降りて観光案内板を見ていく場所を考える。うーん。やっぱり最初は、天橋立ビューランドかな。歩いてすぐだし。よし行こう。その前にコンビニへ。飲み物となんか売ってたもちを買って元気満タン。 

 リフトとケーブルカーがあって私はリフトを選択。どんどん上がっていく。ちょっと怖い。けども眺めは最高で風も気持ちい。これが天橋立かー。雪をかぶった松の道はとても美しくすこし天気がくもりなのがまたとてもいい。いま雪が降ってないのがおしいな。シャッターを何度もきってこの絶景を記録する。後ろでは遊園地で遊ぶこどもたちの賑やかな声が聞こえる。わたしももっと幼かったら私もはしゃいで遊んだんだろうな。さすがにこの年では無理だな。まだ19だけど。

 帰りのリフトに乗り降りる頃にはちょうどお昼時。ランチはどこで食べようか。少し歩いてるとカフェが目に入ってきた。ここにしよう。ここがいい。ピンときたら迷わず決める。とても雰囲気がいい。メニューには、ハンバーガーなカレーやケーキそしてパフェなどがありどれも美味しそう。悩んだ末ハンバーガーと抹茶のケーキとコーヒーに決定。店内からは海と天橋立への橋が見え立地も完璧。とてもいいところを見つけたな。またお気に入りの場所がひとつ増えた。ハンバーガーも抹茶パフェもとても美味しくお腹いっぱい!

 よし次は船に乗って反対側からの天橋立の景色を見に行こうか。そして今日は丹後を満喫しよう。